・参加人数:会場参加者30人、配信視聴者400人、
ソーシャルストリーム参加者15人
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4つのアーカイブがあります。
1つ目は会の説明。2つ目は問題提起とWSの進め方。3、4はWSの様子になります。
第1回のサマリーを掲載。
議事録はこちらからDL出来ます。
3月2日日曜日、須賀川市の自然食レストラン「銀河のほとり」にて、ワークショップ『311後の報道・情報~あの時人々はどう動いたか?』が開催された。
前回2月14日開催の『県民健康管理調査ってなに?リスクコミュニケーションってなに?』に続く、2回目のWSであった。
東日本大震災後、地震、津波、原発事故をめぐる報道を検証する試みは幾度となく繰り返されてきた。
しかし、それらはたいてい恣意的な報道の功罪を問うものであり、「報道や情報を受け取った私たち」の側を問い直す視点はあまりなかったように思う。
今回のWSは、原発事故後の報道・情報をたどるとともに、それを見聞きした自分らが何を信じ、どう行動したのかを、体系的に捉えなおしていこうという趣旨で呼びかけられた。
まず岩田渉氏が、3.11後の氏の動きをなぞりながら、情報検証の自身のメソッドを披露した。
『測定器47台プロジェクト』を立ち上げるなかで、協力を仰いだフランスのNGO団体CRIRADへの情報提供の経験が、大きなトレーニングになったという。
情報を精査するために氏が掲げる柱は以下の4つ。
特に震災直後は、出典不明の情報がSNSなどを通じて多く氾濫した。
それらを鵜呑みにして「踊らされた」という実感を持つ人は多いのではないだろうか。
それを防ぐ具体的な方法として、例えば東電発表の情報について検証する場合は、
というように情報をあたっていく手順を挙げた。
また、岩田氏は、情報が変質していく事例を示した。
2013年10月に、除染状況の進捗等を調査するため、IAEA調査団が来日した。
その概要報告書には、下記の文言が盛り込まれた。
「除染を実施している状況において、1~20mSv/yという範囲内のいかなるレベルの個人放射線量も許容しうるものであり、国際基準および関連する国際組織、例えば、ICRP、IAEA、UNSCEAR及びWHOの勧告等に整合したものであるということについて、コミュニケーションの取組を強化することが日本の諸機関に推奨される」。
その後、環境省が発表した文書「概要報告書のポイントと政府の当面の方針等について」には、IAEAからの助言通り、「除染を実施している状況において年間1~20mSvという範囲内のいかなるレベルの個人放射線量も許容し得るものであり、国際基準等に整合したものであること」についてコミュニケーションの強化・努力をすべきである、と記された。
これら2つの見解は一致している。
その後11月9日、福島民報が、原子力規制委員会による放射線防護対策の提言が月内にも発表される予定であるとして、その内容を報じた。
その見出しは「20ミリシーベルト以下、健康影響なし」という、過激なものであった。他に報じたのは、産経、読売新聞で、いずれも「追加被ばく『年間20ミリ以下』で影響なし」「20ミリシーベルト以下で安全…規制委が指針」といった見出しを打った。
ところがその報道のあと、11月20日に原子力規制委員会が発表した「帰還に向けた安全・安心対策に関する基本的考え方」は、「年間1~20ミリシーベルトの線量域の下方部分から選択すべきである」「長期の事故後では年間1ミリシーベルトが適切である」などの、ICRPによる勧告を踏襲したものであった。
明らかに、新聞各社の報道と、実際の提言内容とは食い違っていた。
しかしこの食い違いに気付く人々がどれくらいいるか? 人々の記憶に残るのは、「20ミリシーベルト以下、健康影響なし」というセンセーショナルな 見出しだろう・・・。
WSは座談会形式で参加者の震災後の「個人史」をたどり、市民科学者国際会議実行委員会が岩波の雑誌『科学』の編集部と編纂した『被ばく年表』に合わせて、個々人の経験や行動を時系列に組み込んでいく、というかたちで続けられた。
郡山にラジオ局を持つ鈴木則雄氏は、3月12日に設置された災害対策本部の発表を放送する役目を依頼され、サテライト放送の一式を持参して災害対策本部会議に参加した経験を語った。
当時、30キロ圏内から郡山市に避難してきていた浜通りの人々が、県立高校に集められていたが、「それは県がやっていることだから、市の対策本部発表とされては困る」という理由で、具体的な情報は一切発表してはならないと、市長から規制を受けたという。
静岡在住の松本氏は、3月12日には仲間といわき市へ入った。
地元で浜岡原発の反対運動に関わっていたことから、備えてあったアナログのガイガーカウンターと2000人分のヨウ素剤を持って、市内の避難所へ向かった。
しかし市の職員へ渡そうとすると、「こういうものを持ち込まれると、ここが放射能に汚染されているということになってしまうから困ります」と言って拒否されたと明かした。
いわき市のヨウ素剤配布をめぐっては、市議会議員の佐藤和良氏が、市に備蓄されていたヨウ素剤を配るように12日時点で要請を出していたが、市長がそれを拒否したため、配布は18日以降に先延ばしされていたという経緯がある。
いわき市在住の千葉由美さんは、「あのとき配布の判断がされていれば、無駄な被ばくは避けられたというのは確実に言えること」と悔しさを滲ませた。
また、複数の参加者の証言から、山下俊一教授の存在感があらためて浮き彫りになった。
放射線量の単位についての知識もまだ希薄な状況下で、ラジオ福島がしきりに「素晴らしい方」などと紹介した山下氏の放送や、各地で行われた講演会での発言は、多大な影響を及ぼした。
その他、「『風評被害』という言葉はいつ誰が使いはじめたか」という議題が持ち上がり、「枝野官房長官会見で聞いたのが最初」「会津の避難所で始めて耳にした」「県が使い始めたと聞いた」といった記憶の掘り起こしや、インターネットに残る過去の情報を手がかりに探った。
武田邦彦氏が3月19日時点で、自身のHPに「風評被害を無くすために」というブログ記事を発信しており、産経新聞も20日には「風評被害」という言葉を使った記事を出している。
この場で明確な「発信源」を突き止めることはできなかったが、「風評被害」に代表される、メディアや政府によっても使われ、草の根にも浸透している言葉がどのように使われはじめたかを検証することは、大きな意味を持つだろうと思われた。
「(東日本大震災のとき)東海第二原発が170回もベントを行った」と東海村村長が明かしているという、参加者の間でもほとんど知られていなかった情報が俎上に乗せられる場面もあった。
他にも、4月上旬に学校再開の決定がなされた経緯など、検討された情報は仔細かつ多岐にわたる。
またその中で、二本松市の関氏からは、「個々人の行動を決めたのは、外部からの情報や情報の多寡ではないのではないか?」という本質的な問いが提起された。
何か統一の答えを導きだすという目的は設定せず、2011年4月以降についても、この試みを続けて行こうという方針を確認して、散会となった。
会は約4時間半に及んだが、3月中の出来事の検証だけでもまだ時間が足りず、という印象だった。
それだけ人々は事故直後から倒錯する膨大な情報にさらされ、それを信じ、もしくは猜疑心を抱え、翻弄されてきた。冒頭の岩田氏の言葉通り、「情報をこれから自分たちがどのように検証し、どのようにつかみとって自分たちの行動に変えて行くか」という、現在と未来に向けた課題として、この作業を続けていくことは意義深いと感じる。
情報、特に、多大な影響力を持つマスメディアによる報道は、それを信じる人々がいるから成り立つのだという視点は欠かせない。
4年目を迎え、社会の奔流に流される自分も、その勢いを加速させる一端となっているのだという危機感を、改めて意識させられた。
文責:大野 沙亜耶
WSで話された事を元に一覧表にまとめました。
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